(1)庚申講

◇五円玉を握りしめて出かけた「庚申講」

小道木 百体庚申塚
子どものころ、五円玉を握りしめ、「庚申講」に行きました。昭和二十五年ころのことです。

当時講を組織していたのは七軒で、その家の子どもたちが二ヶ月に一度、庚申(かのえさる)の日の夕方、宿に当たった家にお金を持って集まりました。

宿は輪番制で、庚申さま(青面金剛像=せいめんこんごうぞう)の掛け軸を床の間に飾り、だんごと酒を供え簡単におはらいしたあと、だんごやちいちのまんま(味ご飯)などを食べたりして夜遅くまで楽しく過ごしました。

和田町内にはほかにも何組かの講がありましたが、このような子どもの祭りではなく大人の祭りでした。

庚申講は、昭和三十年代まで全国各地で盛んに行われており、仏教では帝釈天(たいしゃくてん)か青面金剛を、神道では猿田彦(さるたひこ)をまつっていました。講には家単位で加入し、血縁関係とか隣組、あるいは有志で組織されていました。

 

青面金剛の掛け軸
庚申講は、道教(どうきょう)の影響によるところが大きく、修行道士(しゅぎょうどうし)は、庚猿の日を守庚申(もりこうしん)といい、徹夜で修行しなければならないとされていました。

それは庚猿の夜には、三戸(さんし=道教でいう人の腹の中にすんでいるといわれる3匹の虫)が寝ている体から出て天に昇り、天帝(天帝)にその人の罪悪を告げられるからだと信じられていたからです。

平安時代、貴族の間で庚猿の日に酒食の宴を催す風習がおこり、それが庚申講として民間に広がったものと考えられています。

室町時代末期になると、各地で庚申供養等が建てられるようになり、申待(さるまち=庚申待ともいい庚申祭りの意)が、猿の信仰と結ぶついていきました。

その結果、三戸の虫が三猿(さんえん)に置きかえられ、見ざる・聞かざる・言わざるにことわざが生まれたといわれています。

忘れられた庚申講ですが、和田地区で復活したところもあり、また下和田地区では、現在も女性たちにより講が続けられています。

遠山信一郎著/遠山風土記より
 

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