(3)年取り行事1  飛騨鰤(ひだぶり)

◇普通の家庭の年取り魚はサンマかイワシ


富山市氷見漁港ブリ市
(撮影 沢田 猛 氏)
大晦日にはよそで働いている子どもたちも帰省し、年取をします。

南信濃村では年取り行事は早いほど良い、とされていましたが、最近ではほとんどの家庭で夕方から夜にかけて行われるようです。 そして、食卓には宅配便で取り寄せた大きなカニ、町で買ってきた寿司や刺身が並び。昆布巻きやタツクリ、黒豆、お菜など本来の年取り料理はすみに追いやられ、すっかり忘れられようとしています。

それでも、年取り魚「ブリ」は今でも主役です。

明治の中ころ、越中氷見(えっちゅうひみ)では旧暦十一月末、能登など富山湾で水揚げされた寒ブリの腸を出し中をきれいに洗い、甘塩にこしらえます。塩ブリ四本を竹籠(たけかご)に入れむしろに包んで一行李(ひとこうり)、四行李約三十二貫(かん)が一荷(ひとに)となり「越中ブリ」として各地に出荷されました。 むしろには、今の標章に当たる店の印を墨で書き入れられました。

越中ブリは、馬方により二泊三日で飛騨高山へ運ばれ、番所となっている「川上問屋(かわかみどんや)」を経由し飛騨一円・信州・美濃へと送られました。

信州へは、牛方により野麦峠を越し松本へ、もうひとつは木曽の薮原(やぶはら)から権兵衛峠(ごんべえとうげ)を越し伊那谷へ入ったのです。

川上問屋へは約八千行李、すなわち三万匹前後のブリが入り、一行李三銭の運上金(うんじょうきん)が明治政府の収入になったそうです。

遠山へはもうひとつのルート、下呂(げろ)から馬籠(まごめ)、妻籠(つまご)、大平峠(おおだいらとうげ)を経由して飯田へ入り、さらに伊那山脈を越し、運ばれてきました。

こうして運ばれたブリは、信州に入り「飛騨鰤」と呼ばれ、高値で売買されました。 一方糸魚川(いといがわ)から塩の道を運ばれ、大町地方に入ったブリは糸魚川ブリと呼ばれていました。

甘塩の越中ブリに比べ腸を洗わずたくさんの塩をふるため、価値も低かったそうです。


松本市で開催された
「鰤のきた道」展
2001年12月
明治十九年ころ、旧暦の十二月四・五日ころ氷見を出たブリは、上穂((うわぶ)(現在の駒ヶ根市)へは二十日ほどかかって着き、米一石(いっこく)【=百升(ひゃくしょう)】が二円八十銭のころ、一匹一円四・五十銭で売られていました。

富山の問屋(ブリ屋)は、仕入が1匹約二十八銭、仕込み賃や上納金、運び賃を支払い、一行李で一円五十銭の利益があったそうです。

今でも高いブリ。このころ遠山谷では、振り一匹いったいいくらしたのでしょうか。とても普通の家では買えなかったのではないでしょうか。

明治の終わりころ、越中での浜値(はまね)は「一斗(いっと)ブリ」といって、米一斗がブリ一本というのが相場でした。

ところが信州では「一俵(いっぴょう)ぶりといわれ約四倍の高値がつけられていた(『鰤街道』)と記されています。

松本市で開催された
「鰤のきた道」展
『ふるさとへの伝言』の中には、こう書かれています。 「正月は、サンマを半分ずつ、どっちが大きいかくらべて横目でにらんでとる」 松本市で開催された 「鰤のきた道」展 デイサービスに通うお年寄りたちに聞きますと、当時はたいへん貧しかった、と口をそろえていいます。

野牧(のまき)シゲ子さん(大正八年生まれ)は八歳のとき、諏訪(すわ)へ子守り奉公に行かされたと涙を浮かべて話されました。

一方では、コンニャクや養蚕(ようさん)、煙草(たばこ)、勝栗(かちぐり)で財をなした人や、山師(やまし)相手の商売で稼(かせ)いだ人が多くいたことも事実です。

こうした一部の人が飛騨鰤を食べられ、普通の家庭の年取り魚はサンマかイワシでした。 霜月祭りに、必ずサンマがだされるのはサンマは晴れの日の一番のごちそうだったからなのです。

(注)遠山谷へは、青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて入ってきたブリもあり、飛騨鰤とはいいませんでした。

遠山信一郎著/遠山風土記より
 

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