遠山風土記(5)祭りを伝えた修験者
◇遠山の霜月祭りと修験道
遠山の霜月祭りと修験道(しゅげんどう)とは、切っても切れない縁があるといわれています。
霜月祭りの原点、湯立て神楽(かぐら)を伝えたのは修験者で、日本各地にさまざまな影響を与えています。
とくに神楽や田楽など民俗芸能の多くは、明治の神仏分離令(1868年)により見えにくくなっていますが、実は修験者の芸能だった(五来重=ごらいしげる・宗教学者)といわれています。
「花祭り」で有名な愛知県三河の地方には、祭りは修験者によって始められたという言い伝えがありますが、民俗学者で遠山谷ではなじみが深い武井正弘(たけいしょうぐ)氏によれば、「天竜水系には平安末期から鎌倉中期にかけて熊野修験(くまのしゅげん)が来訪流入し、花祭りはそうした熊野修験がもたらし創り出した祭り」だと結論しています。
霜月祭りで行われる湯立ては修験者の作法によってなされ、九字(くじ)を」切り、印を組み神々を勧請(かんじょう)するという一連の動作は、修験道そのものです。
和田の霜月祭りのクライマックスである「面」の登場の前に、太夫(禰宜=ねぎ)が火伏せの神事を行いますが、そのとき唱える呪文(じゅもん)は「臨(りん)・兵(へい)・闘(とう)・者(や)・皆(かい)・陳(ちん)・烈(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)」で、これは道教にルーツを持つ、修験の代表的な秘法のひとつです。
修験道は、和歌山県の葛城山(かつらぎさん)で呪禁道(じゅごんどう)の修行をしていた役小角(えんのおづぬ)が開祖といわれています。
役(えん)の行者とも呼ばれる役小角は、7世紀飛鳥時代に実在していたことはたしかなようですが、修験道の開祖、役行者とは別個の、理想化された修験道の祖師であるといわれています。
平安時代、律令制(りつりょうせい)の崩壊により、出家僧が激増し、彼らは山岳地域に進出、呪術(じゅじゅつ)を習得していきました。
このころ、紀伊半島の南端熊野地方あるいは越前白山で修験する密教僧が大きな勢力を蓄え、原始的な山岳信仰は密教修験道の基礎になっていきました。
山岳で修行をつんだ、空海は真言宗を、最澄(さいちょう)は天台宗をおこし、多くの一般民衆の支持を得、山岳仏教は盛んになっていきました。
日本は山の国。 山は、金鉱師、木地師(きじし)、杣人(そまびと)、炭焼きなど山人(さんじん)あるいはなぞの漂白民サンカと呼ばれる集団が、古代から明治にいたるまで日本の山地、山岳に存在していました。
山人は、神武東征(じんむとうせい)の際征服され山に追われた先住民で、支配の網から逸脱していったため、里人(さとびと)からは鬼・天狗・山男・山姥(やまうば)などと恐れられていました。
これら山人に関する記録はほとんど残っていませんが、日本の山岳宗教が山人との深い結びつきの上に成立したことはたしかなようです。
修験者は、こうした山人との交流により、金属文化をとり入れ、護摩あんど火を操る技術を習得していきました。
また、昭和初期まで遠山地方であったクダショウ憑(つ)きを追いはらった禰宜とか、拝み屋さんとかいわれる民間祈祷師は、山伏の息災護摩、調伏法(ちょうふくほう)、憑き物落としなど加持祈祷の影響が強く、密接な官営にあるといわれています。
蔵王権現(ざおうごんげん)の不動明王(ふどうみょうおう)を崇拝する修験者は、仏教・神道(しんとう)からは「雑宗」と呼ばれ低俗視されながらも、日本全国の山々を巡り、自分たちの宗教と文化を小さな村にまで広げていったのです。
























