遠山風土記(7)青崩峠
◇秋葉街道・・・諏訪信仰の道
![]() 青崩峠から遠山谷を望む ![]() 青崩峠 ![]() 米山吉松碑 |
これからも当時の秋葉詣でに、いかに多くの人たちが秋葉街道を行き来したかが伺(うかが)われます。
秋葉街道は、古くは「諏訪道」と呼ばれ、諏訪信仰の道として発達していきましたが、近世に徳川家康の庇護(ひご)により全国で遠州秋葉山の火伏鎮護(ひぶせちんご)の神への信仰が高まり、いつしか「秋葉街道」と名を変えていったのです。
その信仰の道は塩の道であり、霜月祭りを伝えた文化伝播の道、さらに武田信玄によって軍用路として利用された道でもありますが、杖突(つえつき)、分杭(ぶんぐい)、地蔵など幾つもの峠越えのある険しい道のりでした。 その難所のひとつが「青崩峠」(標高1082m)です。
青崩峠hあその美しい眺望とは対照的に、中央構造線(メディアンライン)の大規模な断層によりガレとなり、名前の由来となった青色のむき出しの山肌は、往来する旅人に恐怖感さえ与えていました。
加藤陶綾(とうりょう=画家・歌人、著書に「信濃画帳」他。故人)は「青崩の目指す岩嶺(いわみね)見え居つつ幾時ぞいまだ谷登り居る」(池田寿一編『遠山紀行』)と、峠への道の険しさを詠(うた)っています。
青崩峠は、遠州と信州の国境にあり、地質、動植物の生態、民俗学の他、歴史的にも重要なところです。
そこに明治二十五年建立され、すっかり忘れられた一基の石碑があります。飯田事件に関わりがあったのでは(『遠山物語』)、といわれている米山吉松(松雨=しょうう)の碑文です。
「・・・・病往来為嫌然於青崩嶺難不甚高倹悪而蜀道不啻也、松杉之外草木不繁茂焉多石礫而景至天然其名巌々大者如厦屋・・・・ 明治二十有五稔一月 信南江儀之荘米山松雨撰並書」(原文の一部) 「往来するには病気になるほど険しいと嫌われた青崩峠は、それほど高いところではない。ただ険悪な道だけでなく、石ころが多く松や杉のほか草木も茂らないところで、その景観は天然のままで、大きな岩は家ほどもあり、奇妙な形は鳥獣の様に見える」とこのように峠の様子が書かれています。
青崩峠は、ロマンの霊犬早太郎(れいけんはやたろう)伝説の陰に、悲しい歴史がありました。
大正かえあ昭和にかけて、十五歳前後の少女たちが貧しい家族を助けるため、期待と不安を抱きながら峠を越えて行きましたが、その少女の多くは、製糸工場の劣悪で過酷な労働に病し、肺結核に冒されていったのです。 生家で養生できた人はまだまだ良い方で、峠を生きて越えられなかった少女もおり、青崩峠は、まさに女工哀史(あいし)の峠でもあったのです。
古くは太平洋側の塩を、そして諏訪の文化を遠州に、遠州からは都の文化を信州へ伝播した、青崩峠。 青崩峠は、信仰の道秋葉街道とともに、また歴史を語る信州と遠州の「国ざかい」として、いつまでも人々の心に残ることでしょう。



























