【ジンギスカンと天然ジビエ/肉のスズキヤ】

ニンニクと信州味噌を隠し味とした秘伝のタレを揉み込んで作るジンギスカン【遠山ジンギス】の肉のスズキヤです

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肉のスズキヤ店主です

鈴木理店主
信州の南端「遠山郷」は、南アルプスの麓の自然豊かな場所です。
肉のスズキヤ」は2011年に創業55年を迎え、今は2代目となる店主と従業員が一丸となって、伝統の味を守りつつ新しい商品を生み出しています。
この豊かな自然の中から、遠山郷の味「遠山ジンギス」など当店自慢の商品や美味しいお肉・珍しいお肉を、山の暮らしに密着した食文化と共に届けします。

(二代目/鈴木理)

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遠山風土記1

信州遠山郷にて創業50年

 『若旦那のお便り』は、あんなもんですが、『遠山風土記』は、遠山常民大学に学んだ地元の写真家「遠山信一郎」さんのエッセイで、遠山郷の神々の由来や民俗風習を著しています。 村の少年少女の「郷土教育」のテキストにも使われています。
「遠山風土記」のご注文は南信濃教育委員会にお問合せください。
(電話0260-34-5110、FAX0260-34-5402)

「遠山風土記」転載文章

1. 庚申講
2. 七夕の花くばり
3. 年取り行事1 飛騨鰤
4. 営林署の山の神


(1)庚申講

小道木 百体庚申塚
小道木 百体庚申塚

子どものころ、五円玉を握りしめ、「庚申講」に行きました。昭和二十五年ころのことです。当時講を組織していたのは七軒で、その家の子どもたちが二ヶ月に一度、庚申(かのえさる)の日の夕方、宿に当たった家にお金を持って集まりました。
宿は輪番制で、庚申さま(青面金剛像=せいめんこんごうぞう)の掛け軸を床の間に飾り、だんごと酒を供え簡単におはらいしたあと、だんごやちいちのまんま(味ご飯)などを食べたりして夜遅くまで楽しく過ごしました。
和田町内にはほかにも何組かの講がありましたが、このような子どもの祭りではなく大人の祭りでした。

庚申講は、昭和三十年代まで全国各地 で盛んに行われており、仏教では帝釈天(たいしゃくてん)か青面金剛を、神道では猿田彦(さるたひこ)をまつっていました。講には家単位で加入し、血縁関係とか隣組、あるいは有志で組織されていました。

庚申講は、道教(どうきょう)の影響によるところが大きく、修行道士(しゅぎょうどうし)は、庚猿の日を守庚申(もりこうしん)といい、徹夜で修行しなければならないとされていました。それは庚猿の夜には、三戸(さんし=道教でいう人の腹の中にすんでいるといわれる3匹の虫)が寝ている体から出て天に昇り、天帝(天帝)にその人の罪悪を告げられるからだと信じられていたからです。
平安時代、貴族の間で庚猿の日に酒食の宴を催す風習がおこり、それが庚申講として民間に広がったものと考えられています。
室町時代末期になると、各地で庚申供養等が建てられるようになり、申待(さるまち=庚申待ともいい庚申祭りの意)が、猿の信仰と結びついていきました。
その結果、三戸の虫が三猿(さんえん)に置きかえられ、見ざる・聞かざる・言わざるにことわざが生まれたといわれています。

青面金剛の掛け軸
青面金剛の掛け軸

忘れられた庚申講ですが、和田地区で復活したところもあり、また下和田地区では、現在も女性たちにより講が続けられています。


(2)七夕の花くばり

◇和田では、昭和四十年ころまで「花くばり」

七夕の花くばり八月七日は七夕祭り。
六日の朝、山から笹竹をきり、里芋の葉の露を集め墨をすり、短冊に星の名や願い事を書きます。
里芋の露で書くと字が上手になるといわれ、早起きをして一生懸命露を集めたものでした。
竹に、願いをしたためた短冊を付け玄関先に飾り、そのかたわらにむしろを敷き机を置いて、その上に野菜や果物のほか、キュウリやなすに足を付けトウモロコシの毛を尾にした馬を供えました。
また、勉強ができるようにと、本や教科書を置いたりもしました。
和田では、七夕の行事として昭和四十年ころまで、子どもの間で花くばりが行われていました。
この風習は、いつごろから始まったのか不明ですが、山から採ってきた草花や、家で栽培した花をお互いに交換しあうものです。主に女の子の遊びでしたが、昭和三十年代、花がおもちゃや漫画本に変化していったころから、男の子も参加するようになったようです。
この花くばりに特に関心もなかったのですが、あるとき、花くばりにはどんな意味があるかと聞かれたことがあり、調べてみましたら、実は和田以外では見あたら ない、大変めずらしい行事【飯田市美術博物館・桜井弘人(さくらいひろと)さんの話】だったということがわかりました。

水野都沚生(みずのとしお)氏は、『秘境伊那谷物語』の中で、この花くばりのことを次のように書いています。
「・ハタを織ったその布の美しさを見せあった形の名残が花に変移した。・篠(ささ)につける短冊は本来衣服を吊るしたものから色紙に変わったものだからその美しい模様をくらべたことから花に変移した。・花は、「草木染め」の染料の素として摘花(てきか)したもので、織りあげた布を染めた昔のしきたりが形だけ花として残ったもの」

いずれにしても、子どもの遊びだった花くばりは、女性の重要な仕事のひとつだった裁縫(さいほう)や機織(はたおり)と深い関係があったことはたしかなようです。
七夕祭りは、日本古来からの棚機女信仰(たなはたづめしんこう)に、中国の星祭り(乞香奠=きっこうてん)が習合(しゅうごう)したもの(仏教民俗辞典)といわれ、江戸時代に農耕儀礼や祖霊信仰色(それいしんこうしょく)の濃い形で民間に広まりました。
また、飾りは正月の松飾りと同じ神の依代(よりしろ)であり、七夕は単なる星祭りでなく、祖霊祭りである盆行事のひとつであったのではないかと考えられています。

夏の夜、夕涼みをしながら、空に横たわる天の川の牽牛(けんぎゅう)と織り姫(おりひめ)の変わらぬ愛を思い、ロマンにひたってみるのもいいものです。


(3)年取り行事1 飛騨鰤(ひだぶり)

◇普通の家庭の年取り魚はサンマかイワシ

富山市氷見漁港ブリ市
富山市氷見漁港ブリ市
(撮影 沢田 猛 氏)

大晦日にはよそで働いている子どもたちも帰省し、年取をします。
南信濃村では年取り行事は早いほど良い、とされていましたが、最近ではほとんどの家庭で夕方から夜にかけて行われるようです。 そして、食卓には宅配便で取り寄せた大きなカニ、町で買ってきた寿司や刺身が並ぶ。昆布巻きやタツクリ、黒豆、お菜など本来の年取り料理はすみに追いやら れ、すっかり忘れられようとしています。

それでも、年取り魚「ブリ」は今でも主役です。

明治の中ころ、越中氷見(えっちゅうひみ)では旧暦十一月末、能登など富山湾で水揚げされた寒ブリの腸を出し中をきれいに洗い、甘塩にこしらえます。塩ブリ四本を竹籠(たけかご)に入れむしろに包んで一行李(ひとこうり)、四行李約三十二貫(かん)が一荷(ひとに)となり「越中ブリ」として各地に出荷されました。 むしろには、今の標章に当たる店の印を墨で書き入れられました。
越中ブリは、馬方により二泊三日で飛騨高山へ運ばれ、番所となっている「川上問屋(かわかみどんや)」を経由し飛騨一円・信州・美濃へと送られました。
信州へは、牛方により野麦峠を越し松本へ、もうひとつは木曽の薮原(やぶはら)から権兵衛峠(ごんべえとうげ)を越し伊那谷へ入ったのです。
川上問屋へは約八千行李、すなわち三万匹前後のブリが入り、一行李三銭の運上金(うんじょうきん)が明治政府の収入になったそうです。
遠山へはもうひとつのルート、下呂(げろ)から馬籠(まごめ)、妻籠(つまご)、大平峠(おおだいらとうげ)を経由して飯田へ入り、さらに伊那山脈を越し、運ばれてきました。
こうして運ばれたブリは、信州に入り「飛騨鰤」と呼ばれ、高値で売買されました。 一方糸魚川(いといがわ)から塩の道を運ばれ、大町地方に入ったブリは糸魚川ブリと呼ばれていました。
甘塩の越中ブリに比べ腸を洗わずたくさんの塩をふるため、価値も低かったそうです。

明治十九年ころ、旧暦の十二月四・五日ころ氷見を出たブリは、上穂(うわぶ(現在の駒ヶ根市))へは二十日ほどかかって着き、米一石(いっこく)【=百升(ひゃくしょう)】が二円八十銭のころ、一匹一円四・五十銭で売られていました。
富山の問屋(ブリ屋)は、仕入が1匹約二十八銭、仕込み賃や上納金、運び賃を支払い、一行李で一円五十銭の利益があったそうです。

松本市で開催された 「鰤のきた道」展
松本市で開催された
「鰤のきた道」展
2001年 12月

今でも高いブリ。このころ遠山郷では、振り一匹いったいいくらしたのでしょうか。とても普通の家では買えなかったのではないでしょうか。
明治の終わりころ、越中での浜値(はまね)は「一斗(いっと)ブリ」といって、米一斗がブリ一本というのが相場でした。
ところが信州では「一俵(いっぴょう)ぶり」といわれ、約四倍の高値がつけられていた(『鰤街道』)と記されています。

松本市で開催された 「鰤のきた道」展
松本市で開催された
「鰤のきた道」展

『ふるさとへの伝言』の中には、こう書かれています。「正月は、サンマを半分ずつ、どっちが大きいかくらべて横目でにらんでとる」デイサービスに通うお年寄りたちに聞きますと、当時はたいへん貧しかった、と口をそろえていいます。

野牧(のまき)シゲ子さん(大正八年生まれ)は八歳のとき、諏訪(すわ)へ子守り奉公に行かされたと涙を浮かべて話されました。
一方では、コンニャクや養蚕(ようさん)、煙草(たばこ)、勝栗(かちぐり)で財をなした人や、山師(やまし)相手の商売で稼(かせ)いだ人が多くいたことも事実です。
こうした一部の人が飛騨鰤を食べられ、普通の家庭の年取り魚はサンマかイワシでした。 霜月祭りに、必ずサンマがだされるのはサンマは晴れの日の一番のごちそうだったからなのです。
(注)遠山郷へは、青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて入ってきたブリもあり、飛騨鰤とはいいませんでした。

 


(4)営林署の山の神

◇山の仕事は危険が多かった

木沢梨元(きざわなしもと)、営林署貯木場の山つきに木の鳥居があり、そこに山の神がまつられています。
この山の神は大山祗神社(おおやまつみじんじゃ、(注)「祗」は、正確には、示辺に氏と書く)といい、下條村にある入登山神社(にゅうとざんじんじゃ)から分祀(ぶんし)したもので、大山祗命(おおやまつみのみこと)をまつり、山作業の安全を祈願しています。

梨本貯木場
梨本貯木場
1995 年3月

大山祗命は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子で、大山津見神とも記し大山祗御祖命(おおやまつみおやのみこと)ともいい、山を主宰(しゅさい)し、山神を統率する神ですが、愛媛県越智郡(おちぐん)大三島町の大山祗神社では水軍の守護神として信仰を集めました。
遠山郷は広大な山林を有し、木材の宝庫として江戸時代には榑木(くれき)を年貢として搬出していましたが、明治二十九年には王子製紙が共有山林の伐採を始 め、昭和三十五年ころまで和田の町は林業景気にわいていました。

営林署の山の神 (大山祗神社)
営林署の山の神
(大山祗神社)

この山林業務にたずさわる人たちは、山師(やまし)・杣(そま)・ヒョウなどと呼ばれていましたが、彼らは山へ入るときはいろいろな行事をして、山での災難除け(さいなんよけ)をしていました。
山の神をまつり、御神酒(おみき)を奉じておはらいをしたり、赤い紙と白い紙を重ねて三角に折り、それを棒にさして山の所々に立てたりしました。

また毎月一日と十五日は仕事を半日で終え、山の神をまつり安全を祈ったりもしました。
それほど、山の仕事は危険が多かったことも事実で、営林署でも大勢の方が山で命を失いました。
その霊をなぐさめるためと、安全を祈願するため、営林署は毎年四月十四日と七月十四日にこの大山祗神社で例祭を行っています。
(注)営林署の山の神は、平成13年3月に事務所に隣接する敷地内に移転しました。

遠山信一郎著/遠山風土記より

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