【ジンギスカンと天然ジビエ/肉のスズキヤ】

ニンニクと信州味噌を隠し味とした秘伝のタレを揉み込んで作るジンギスカン【遠山ジンギス】の肉のスズキヤです

工場直販・会社概要はこちら
遠山倶楽部はこちら

メインメニュー

肉のスズキヤ店主です

鈴木理店主
信州の南端「遠山郷」は、南アルプスの麓の自然豊かな場所です。
肉のスズキヤ」は2011年に創業55年を迎え、今は2代目となる店主と従業員が一丸となって、伝統の味を守りつつ新しい商品を生み出しています。
この豊かな自然の中から、遠山郷の味「遠山ジンギス」など当店自慢の商品や美味しいお肉・珍しいお肉を、山の暮らしに密着した食文化と共に届けします。

(二代目/鈴木理)

>店主 鈴木理の部屋
>肉屋の女房の部屋
>お客様担当:ごっちゃプロフィール
>スタッフ:はるちゃんプロフィール

【お肉の業務用お問い合せ窓口はこちら】 美味しいお肉、珍しいお肉をお探しの業者様、料理店様、お気軽にご相談ください。ご希望に応じて、最適にカット、梱包して発送いたします。お見積もりもお気軽にどうぞ。
TEL:0260-34-2222
営業時間:8:00-18:00
(お電話の対応8:00-17:00)
>お問い合せフォーム

レビューはそれぞれの商品ページへ行ってから、「レビューを投稿する」ボタンを押してください。(ログイン後でないと表示されません)

二次元コード

二次元コード

携帯サイトはこちらから

遠山風土記2

「遠山風土記」転載文章

5. 祭りを伝えた修験者
6. 畑の名称
7. 青崩峠
8. 遠山氏の祖先は鉄鋼の技術集団か

(5)祭りを伝えた修験者

◇遠山の霜月祭りと修験道

遠山の霜月祭りと修験道(しゅげんどう)とは、切っても切れない縁があるといわれています。
霜月祭りの原点、湯立て神楽(かぐら)を伝えたのは修験者で、日本各地にさまざまな影響を与えています。
とくに神楽や田楽など民俗芸能の多くは、明治の神仏分離令(1868年)により見えにくくなっていますが、実は修験者の芸能だった(五来重=ごらいしげる・宗教学者)といわれています。

「花 祭り」で有名な愛知県三河の地方には、祭りは修験者によって始められたという言い伝えがありますが、民俗学者で遠山郷ではなじみが深い武井正弘(たけい しょうぐ)氏によれば、「天竜水系には平安末期から鎌倉中期にかけて熊野修験(くまのしゅげん)が来訪流入し、花祭りはそうした熊野修験がもたらし創り出 した祭り」だと結論しています。
霜月祭りで行われる湯立ては修験者の作法によってなされ、「九字(くじ)」を切り、印を組み神々を勧請(かんじょう)するという一連の動作は、修験道そのものです。
和 田の霜月祭りのクライマックスである「面」の登場の前に、太夫(禰宜=ねぎ)が火伏せの神事を行いますが、そのとき唱える呪文(じゅもん)は「臨(り ん)・兵(へい)・闘(とう)・者(や)・皆(かい)・陳(ちん)・烈(れつ)・ 在(ざい)・前(ぜん)」で、これは道教にルーツを持つ、修験の代表的な秘法のひとつです。

修験道は、和歌山県の葛城山(かつらぎさん)で呪禁道(じゅごんどう)の修行をしていた役小角(えんのおづぬ)が開祖といわれています。
役(えん)の行者とも呼ばれる役小角は、7世紀飛鳥時代に実在していたことはたしかなようですが、修験道の開祖、役行者とは別個の、理想化された修験道の祖師であるといわれています。
平安時代、律令制(りつりょうせい)の崩壊により、出家僧が激増し、彼らは山岳地域に進出、呪術(じゅじゅつ)を習得していきました。
このころ、紀伊半島の南端熊野地方あるいは越前白山で修験する密教僧が大きな勢力を蓄え、原始的な山岳信仰は密教修験道の基礎になっていきました。
山岳で修行をつんだ、空海は真言宗を、最澄(さいちょう)は天台宗をおこし、多くの一般民衆の支持を得、山岳仏教は盛んになっていきました。

日本は山の国。 山は、金鉱師、木地師(きじし)、杣人(そまびと)、炭焼きなど山人(さんじん)あるいはなぞの漂白民サンカと呼ばれる集団が、古代から明治にいたるまで 日本の山地、山岳に存在していました。
山人は、神武東征(じんむとうせい)の際征服され山に追われた先住民で、支配の網から逸脱していったため、里人(さとびと)からは鬼・天狗・山男・山姥(やまうば)などと恐れられていました。
これら山人に関する記録はほとんど残ってい ませんが、日本の山岳宗教が山人との深い結びつきの上に成立したことはたしかなようです。
修験者は、こうした山人との交流により、金属文化をとり入れ、護摩あんど火を操る技術を習得していきました。
また、昭和初期まで遠山地方であったクダショウ憑(つ)きを追いはらった禰宜とか、拝み屋さんとかいわれる民間祈祷師は、山伏の息災護摩、調伏法(ちょうふくほう)、憑き物落としなど加持祈祷の影響が強く、密接な官営にあるといわれています。

蔵王権現(ざおうごんげん)の不動明王(ふどうみょうおう)を崇拝する修験者は、仏教・神道(しんとう)からは「雑宗」と呼ばれ低俗視されながらも、日本全国の山々を巡り、自分たちの宗教と文化を小さな村にまで広げていったのです。


(6)畑の名称

◇山を開拓してきた歴史

遠山郷は、中央構造線上にあって地形が急峻で、田はもちろん畑を開墾するにも大変な苦労をしてきました。
木を切り、根を掘りおこし、石を拾い、すこしずつ、少しずつ開梱していきました。
先人たちは、日当たりの良い、少しでも平らなところは田や畑にし、住む家はそのすみの方に建てました。

名古山(なごやま)にヤズカ畑と呼ばれるところがあります。それは、畑をうなぐ(耕す=たがやす)ときに出たイシックラ(小石・石)を捨てたところで、ヤズカとは、石垣・石堤(いしづつみ)のことで、名古山の畑のクロ(周り)には畑からでた石が高く積み上げられています。
また漆平島(しっぺいじま)の畑はゼリ畑と呼ばれています。
名古山ヤズカ畑。遠山では、小石のたくさんあるところをゼリックラといいますが、漆平島の畑はたいへん小石が多いのでそう呼ばれたのです。
そして梶谷(かじや)にはツジ畑と呼ばれているところがあります。
ツジとは、ツイジカケからきた言葉と思いますが、ツイジは石垣のことで築地と書きます。
やはり開梱のときに出た石を積み上げ、畑を作っていったのです。

名古山ヤズカ畑
名古山ヤズカ畑
梶谷ツジ畑
梶谷ツジ畑
漆平島ゼリ畑
漆平島ゼリ畑

他にも石塚などもありますが、いずれもサガシ(斜面)の。それも石の多い土地を開墾し、耕地していった先人たちの苦労が偲(しの)ばれ地名がそのことを物語っています。地名からそこの歴史がわかります。 地名は、歴史です。


 (7)青崩峠

◇秋葉街道・・・諏訪信仰の道

八重河内小嵐(やえごうちこおらし)の民宿島畑(しまばた)に残されている明治十五年の「宿泊人名簿」には、毎日五〜六人の宿泊者の行き先が「秋葉山(あきはさん)」と書き記されています。
これからも当時の秋葉詣でに、いかに多くの人たちが秋葉街道を行き来したかが伺(うかが)われます。

秋葉街道は、古くは「諏訪道」と呼ばれ、諏訪信仰の道として発達していきましたが、近世に徳川家康の庇護(ひご)により全国で遠州秋葉山の火伏鎮護(ひぶせちんご)の神への信仰が高まり、いつしか「秋葉街道」と名を変えていったのです。
その信仰の道は塩の道であり、霜月祭りを伝えた文化伝播の道、さらに武田信玄によって軍用路として利用された道でもありますが、杖突(つえつき)、分杭(ぶんぐい)、地蔵など幾つもの峠越えのある険しい道のりでした。その難所のひとつが「青崩峠」(標高1082m)です。

青崩峠はその美しい眺望とは対照的に、中央構造線(メディアンライン)の大規模な断層によりガレとなり、名前の由来となった青色のむき出しの山肌は、往来する旅人に恐怖感さえ与えていました。
加藤陶綾(とうりょう=画家・歌人、著書に「信濃画帳」他。故人)は「青崩の目指す岩嶺(いわみね)見え居つつ幾時ぞいまだ谷登り居る」(池田寿一編『遠山紀行』)と、峠への道の険しさを詠(うた)っています。

青崩峠は、遠州と信州の国境にあり、地質、動植物の生態、民俗学の他、歴史的にも重要なところです。

青崩峠から遠山郷を望む
青崩峠から遠山郷を望む
青崩峠
青崩峠
米山吉松碑
米山吉松碑

そこに明治二十五年建立され、すっかり忘れられた一基の石碑があります。飯田事件に関わりがあったのでは(『遠山物語』)、といわれている米山吉松(松雨=しょうう)の碑文です。
「・・・・ 病往来為嫌然於青崩嶺難不甚高倹悪而蜀道不啻也、松杉之外草木不繁茂焉多石礫而景至天然其名巌々大者如厦屋・・・・ 明治二十有五稔一月信南江儀之荘米山松雨撰並書」(原文の一部)「往来するには病気になるほど険しいと嫌われた青崩峠は、それほど高いところではない。た だ険悪な道だけでなく、石ころが多く松や杉のほか草木も茂らないところで、その景観は天然のままで、大きな岩は家ほどもあり、奇妙な形は鳥獣の様に見える」とこのように峠の様子が書かれています。
青崩峠は、ロマンの霊犬早太郎(れいけんはやたろう)伝説の陰に、悲しい歴史がありました。
大正から昭和にかけて、十五歳前後の少女たちが貧しい家族を助けるため、期待と不安を抱きながら峠を越えて行きましたが、その少女の多くは、製糸工場の 劣悪で過酷な労働に病し、肺結核に冒されていったのです。生家で養生できた人はまだまだ良い方で、峠を生きて越えられなかった少女もおり、青崩峠は、まさ に女工哀史(あいし)の峠でもあったのです。

古くは太平洋側の塩を、そして諏訪の文化を遠州に、遠州からは都の文化を信州へ伝播した、青崩峠。 青崩峠は、信仰の道秋葉街道とともに、また歴史を語る信州と遠州の「国ざかい」として、いつまでも人々の心に残ることでしょう。


(8)遠山氏の祖先は鉄鋼の技術集団か

◇遠山氏の祖先・・・?

松山義雄氏著による『新編伊那風土記』に、霜月祭り、谷京(やきょう、焼尾=やきお)峠、白山信仰のことが詳しく書かれています。
その中で注目したいのは、白山神社の神像が隻眼(せきがん=片目)であるということです。
松山氏によれば、その御神体伊邪那岐命(ごしんたいいざなぎのみこと)、大穴牟遅命(おおあなちのみこと)は鉄神であり、風越山(ふうえつざん)一帯を中心 に、これらを信仰する産鉄民(さんてつみん)集団が生活していたのではないか、そして、その集団の一部が遠山郷へ入り、遠山氏の祖先となったのではない か、と書かれています。

畑上の白山神社
畑上の白山神社

さて、白山信仰は、山鉄民集団が各地に鍛冶業(かじぎょう)を求めて移り住み、全国に広まったといわれていますが、遠山にある白山神社について調べているうちに、ちょっと不思議なことに気がつきました。
それは、上島(かみじま)・畑上(はたかみ)・十原(とっぱら)・名古山(なごやま)の四つの白山(城白山=しろはくさん)神社の地域には、そこにしかない苗字があるということです。
例えば、上島には、今川(いまがわ)・山下・上野・陰佐(かげさ)・宇佐美。畑上には、平沢。十原には、坂本・山口・石堂(いしどう)・城崎(しろさき)・荒井・皆浦(みなうら)。
名古山には、柴原・小西・中村などです。時代を遡ったりして、もう少し正確に調べなければなりませんが、十原では苗字が皆違うことも併せて、白山信仰と何か関わりがあると思われます。
松山氏は、屋敷氏神(うじがみ)として全国各地でまつられている白山神社が、漂白民である産鉄集団の信仰と深い関係にあると想像しています。

霜月祭りは、舞処(まいどころ)は炉の形であり金山彦神(かなやまひこがみ)も現れるので、本来の意味を亡失した鉄山関係の宗教行事、とも書かれており、遠山氏の祖先は鉱山師と深い関わりがあったのでしょうか。

遠山信一郎著/遠山風土記より

ショッピングカート

0点の商品が、
ショッピングカートに入っています。

カートを見る 会計

山肉加工所

メルマガ登録

売れ筋ランキング

商品検索

検索フォーム

※キーワードを入れてください。
※機種依存文字は入力できません。
商品詳細検索へ

20176
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
20177
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
 今日    定休日    休業日