肉の鈴木屋と若旦那物語 | 【ジンギスカンと天然ジビエ/肉のスズキヤ】

肉屋の女房お志保が語る、「若旦那のこと、鈴木屋のこと」

山の肉屋の「若旦那」

山の肉、猪や鹿などの野生鳥獣を扱う山肉精肉店、肉の鈴木屋の二代目、鈴木理(まさし)、58歳。
大物猟の本場と呼ばれる信州遠山郷で父親である先代の理孔(まさよし)が、1957年(昭和32年)に夫婦二人ではじめた小さな肉屋ですが、今は従業員数25名の小さな会社になりました。
社長になって陣頭指揮をする今でも、自らを「若旦那」と称し、まわりも「若旦那」と気軽に声をかけるので、親がはじめた商売を何の気なしに継いでしまった「苦労知らずのお坊ちゃん」のように感じる人もいます。
でも、嫁いでから、肉屋を切り盛りする「若旦那」の傍らにいると、
「若旦那」という言葉の響きから感じる「なんとなくちゃらんぽらん・お気楽な感じ」よりも、
むしろ、「肉」というものに対する真剣さや、会社経営に対する厳しさ、頑固な職人気質を感じています。

「これからは肉の時代が来る」

 

大物猟の本場と言われる遠山郷には、鈴木屋創業の昭和30年代、
山肉(猪や鹿など)の仲買人のような肉屋を含めると十数軒の肉屋があったと言います。

林業が主力産業だった遠山郷は林業景気に沸き、理孔は当時、ノコギリの目たて職人をしていました。
主に塩漬けの魚などを扱う食料品店の娘、智恵子と結婚した1年後の昭和32年、
「これからは肉の時代が来る」と一念発起して、肉屋をはじめたと言います。
山間にひしめく十数軒の肉屋。鈴木屋は当時一番の後発組。
完全な「後入り」で、経験も後ろ盾もない若い二人の商売は困難を極めることが予想されましたが、
創業の翌年、昭和33年に理孔は、遠山郷「初」の冷蔵庫を導入。
創業間もない後入りの鈴木屋にとって、「後入り」だからこその一世一代の大きな賭けであったと思います。
それまでの遠山郷では猪などの肉は、冷蔵庫がないので、
味噌に漬けて腐らないようにして桶にして保存しておいたといいますので、
保存期間が長くなったのは、「僻遠の地」である山間の遠山郷にとって革命的な出来事でした。

理孔の持ち前の負けん気の強さと度胸、智恵子の屈託のない明るさで、
若い二人の商売は軌道に乗り出します。

しかし相変わらず、後入りの苦労はいつ終わるともしれなかったそうです。
理孔は、一人の猟師が一生かかって猟るくらいの猪や鹿や熊を捌き、経験を積みます。

肉の味は、撃ち取った直後の獣を、猟師がいかに手際良く処理できるかによって、大きく左右されること。
血抜きや内臓の処理ばかりでなく、獣の体を上手に冷やすことが必要であること。
山肉の旨さは、猟師さんの腕と、肉屋の努力にかかっていること。
そういった肉屋の技術や心がまえを、身をもって習得していきます。

「オレは、我流だったが、山のモン(猪や鹿、熊)を捌くときは、
 山のモンが、ココへ刃を入れろ、と教えてくれる感じがあった。
野生の獣を捌くと、包丁を入れたときの刃触りで、その年の山の木の実の出来が分かったな。 
それがわからなけりゃ、肉屋とは言えねえな」(理孔)

生かされた「いのち」

そんな二人は、創業の前年に姉の祥子を、昭和35年には長男・理(まさし)を授かります。
智恵子は、当時働きづめだったことから体調を崩し、理は早産で1,850gの未熟児で生まれました。

「当時、そのくらいの赤ちゃんは、ほとんど助からなかった。
 お前はネズミくらい小さくて、本当なら死んどった。
病院の先生や、まわりの衆、神様のおかげで生かされとるんだぞ、と
 物心ついたころから何かにつけて言われて育ったよ」(理)

誕生した日は12月13日。
遠山郷には800年以上伝わる国の重要無形民俗文化財で、
宮崎駿監督のアニメ映画「千と千尋の神隠し」のモデルにもなった「霜月祭り」がありますが、
12月13日は鈴木屋のある秋葉街道和田宿の鎮守の神様「和田諏訪神社」の祭礼の日。
理も、中学生くらいの多感な年頃には、霜月祭りの日に生かされた自分の生命のこと、
天が与えた使命、運命はなんだろう、と考えることも多かったと言います。

 

「煮る」から「焼く」へー遠山ジンギスの誕生―

太平洋戦争末期の昭和19年に始まった遠山郷の飯島水力発電所と堰堤の建設。
当時、朝鮮半島・中国出身者が遠山郷に滞在していました。
朝鮮半島の人たちは、農家から牛や豚を買って来て河原で捌き、
一斗缶に炭を入れて焼いて食べていました。いわゆる「焼き肉」です。
遠山郷ではもともとお肉は「煮て食べるもの」でした。
大人たちは遠巻きにいぶかしんで見ていたようですが、
その当時の子どもたちは、好奇心から焼き肉をもらって食べたそうです。
理孔も、当時12・13歳。好奇心から食べたところ、
タレが揉み込まれておいしくてビックリしたとのこと。

異国の食文化に感動したこと、焼き肉を楽しくうれしそうに食べる姿は、子どもの頃の思い出として残っていたようです。

戦時中、羊毛需要が高まり、
第2次世界大戦が勃発して羊毛の輸入が困難になったことから、
政府は綿羊増殖計画を打ち出していました。
そのため、遠山郷でも、羊を飼っている農家が多かったそうです。
しかし戦後、羊毛が輸入自由化され、綿羊飼育が衰退し、食用に安く出回りました。

理孔は、羊肉は味にクセはあるが、これをお肉の個性に出来れば売れると直感。

幼い日のタレ揉みの焼き肉を思い出し、朝鮮半島出身の人にタレの作り方を教わり、
日本人の口に合うよう改良を重ねました。

タレを羊肉に揉み込むことで臭みが消え、旨みが引き出されたので、焼き肉用として発売したところ、
焼いて食べる珍しさや、タレのおいしさから大繁盛。
「遠山ジンギス」の誕生は、肉を「煮る」ことから、肉を「焼く」ことへの
食文化の大転換であったとも言えると思います。

 

肉屋の跡取り息子

昭和の激動の時代。起業したばかりの親の姿を間近に見て育った理。

「オレのオトウチャ(理孔)は、
職人気質で気が荒くて、負けず嫌いで、世間に左右されない感じ。
絶対に貧しさから抜け出すんだという気概があったわな。
オカアチャ(智恵子)は、気の荒いオトウチャの手綱を握って、後方支援に徹しとったが、
けっこう泣いてもおったと思う」(理)

後年、智恵子は「苦しくても笑う」が座右の銘だと言っているので、
当たらずといえども遠からず、だと思います。

 「ありがたいことなんだけど、お客さんが後を絶たなくて、
  疲労困憊したオトウチャとオカアチャが、
夜は天井の照明を布で覆って留守を装ったことも、あったなー」(理)

苦労して育てた繁盛店。息子に跡を継いで欲しいと両親も考えているに違いないと思いきや、
意外にも理は、「遠山郷で肉屋をやるのは大変だで、オメエは教師になれ」と言われたとのこと。
そして、高校卒業した理は、東京の大学へ進学し、教育実習も済ませましたが・・・・・。

両親も家を継がないことを納得していたはず、理もそのつもりだったそうですが、
大学卒業後、なぜか、理が選んだ進路は「全国食肉学校」。
全国の肉屋の倅たちが数多く通う全寮制の専門学校で、丸坊主になって、朝から晩まで、
お肉のコトを学び、お肉のコトを考え、お肉に触れて過ごしました。

食肉専門学校卒業後、肉屋としての修行のため、東京の食肉卸市場ちかくの肉卸専門問屋に就職。
そんな矢先、働きづめだった智恵子が心臓を患い、入院。
当時、理孔は、地域の経済団体の要職についており、理は店の経営をどうするか決断を迫られたそうです。

「大学にも行かせてもらって、自分がどう生きていくか考えたとき、
 12月13日の霜月祭りの日に生かされた、自分の運命や使命をあらためて考えた。
 結局オレは生まれながらの肉屋で、両親がはじめた肉屋という生業に生かされてきたんだなって。
 考えてみたら、オレはずっと、気がつくと、肉のことばっかり考えているし。オレは肉が好きだ。
 そしたら、自然と、肉屋をやろう、遠山郷で生きていこうって思えたんだな。不思議な感覚。」(理)

 

活力ある山村暮らしを悩みながらおもしろがって

智恵子の病気を機に、遠山郷に戻り、鈴木屋で働き始めた理。
我流で肉屋の道を切り拓いた理孔が、自分の息子である理に手取り足取り教えるわけがありません。
理もそんなことは承知の上の入社でしたし、やはりカエルの子はカエル。
理孔に負けず劣らずの負けん気で、意見の対立などもしょっちゅうだったそうです。

それでも、毎年猟期には、山のモンを捌くために二人して皮を剥き、骨を脱き、スジをとって、という作業を、
二人で黙々と延々と行い、捌く過程で出てくる肉の屑を、コンロで煮て、食べながら昔話を聞いたとか。

素直になれない二人は、教え教わり、なんてことをするのは照れくさくて、
作業の合間に少し話すくらいが精一杯だったのかもしれません。

遠山郷は今も昔も過疎で、近年は、地域が存続するか否かという状況です。
遠山郷に帰ってきてからの理は、両親譲りの「商売と地域の発展の合一」の信条に基づいて、
会社の経営と地域づくりに、一心不乱に取り組んでいきました。

そして、2000年に起きた大手食品メーカーの食中毒事件。
それ以来、食や食品に対する世の中の目が厳しくなり、高度に衛生化した工場の新設が急務だと、
理は感じるようになりました。
施設だけでは駄目で、そこで働くスタッフの知識や所作、そして製造過程の記録が重要視されます。
2008年に億単位の借り入れをして、工場建設に踏み切りました。理にとっては一世一代の賭け。

「山の肉屋から小さな食肉メーカーへの第2の創業」です。両親は賛成とも反対とも言いませんでした。

ところが、北京五輪で過熱気味と言われていた景気が、操業時にはリーマンショックで冷え込み、
取引を拡大するはずだった問屋各社が撤退したり廃業したりしました。
また、操業後、力になってくれるはずのベテランスタッフの4分の3が、
高度に衛生化したやり方について行けず、会社を去っていきました。
理は結局のところ操業後数ヶ月、朝も暗いうちから深夜まで働いて何とか注文に応じたといいます。

その間、理孔は大きな方針に関しては何も言わず、智恵子は「ごはんだけは食べろ」と言い続けたとか。

ヘトヘトになって食べるジンギスが本当に旨くて、明日もがんばろうと思えたそうです。

思えば、幼い頃、お肉を買いに来るお客さまは、顔を真っ黒に日焼けした山で働く男たちだったそうです。
林業の村だった遠山郷には、朝から晩まで額に汗して働く衆が大勢いたのです。
発売当初のジンギスも、そんな山の衆に愛され育てられてきたんだと、両親から聞かされてきたそうですが、

この時、理は「お肉は人を元気にする」「お肉は明日をつくる、活力だ」と心底感じたんだとか。

ピンチがチャンスに。この時を境に山の肉屋は大きく生まれ変わりました。
問屋に頼らず自分で売る力をつけようと、振興課という営業部門をつくり、
まずは理が自ら、九州~東京まで催事やイベントの出張販売に歩き、
ネットショップでの販売に力を入れ「工場とネットショップを持つ山の肉屋」へ路線を変更しました。
今では、辺鄙な山の中の肉屋の商品でも全国のみなさまに喜んでもらえること、
人を呼び寄せることのできる可能性を信じることができるようになりました。

最大のピンチを乗り越え、今も戦い続ける「若旦那」。
次の世代のための、地域づくりと人づくりに邁進したいと思っています。

最後に、ちょっと質問をしてみました。「山の肉屋を継いで、どうですか?」

「いいか悪いかわからないけれど、不思議とまったく後悔はしていない。
大変で困った時もあったけど、今は、どんな経験も血となり、肉となり、糧になるんだと思える」(理)

そして、おいしいのはもちろんだけど、ウチのお肉を食べることで、元気になる、
明日への活力になる、そういうお肉をみなさまへお届けしたいんだと強く思っているとのこと。
日本のどこかで、ウチのお肉を食べて、笑顔になってくださったら、肉屋冥利に尽きる、そうです。
私も若旦那の傍らで「肉屋の女房の挑戦」をしていけたら、と思っています。

思い出のアルバム

肉の鈴木屋と若旦那物語 ニンニクと信州味噌を隠し味とした秘伝のタレを揉み込んで作るジンギスカン【遠山ジンギス】の肉のスズキヤです

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